多少の寿命を賭けてもいいと思う


眠れない日は睡眠薬
落ち着かない日は鎮静薬を
最近それぞれ服用してる


けど昨日、母親に止めた方がいいと勧告を受けた
彼女の言い分はこう「今はいいかもしれないけど、いずれ副作用とかが出てくるかもしれないから」
・・・うん。理解はできる。けど、納得はしかねる部分がある
>「副作用が出てくるかもしれないから」
・・・だから? それを理由に、本当に服用を控えるべき域の問題なんだろうか?
何が言いたいのかというと、その副作用が現れてくるのは少なくとも先になるだろうってこと
恐らくこれから、薬に依存→服用量の増加→より強い薬へ変更→の道を何度か繰り返して発覚に至ると思う
問題は、発覚に至るまでの時間だ
例えば今から5年後に表れるとする。―それはマズイ。
しかし今から40年後に表れるとする。―別にOK
ハッキリ言って、僕としては寿命の3年ぐらい削る結果になったとして
それまで快適に生活できるなら、それぐらいの年数どうってことない問題なんだ


生命活動時間の一端と引き換えに、そのときまでの快適な暮らしを手に入れる
なかなか魅力的な選択肢だと、僕は思ってしまうなw


―けど、だ。ここで強引に客観視に変えてみる。
仮にそれを・・・今度は自分の友達が実行するとするとしよう
そのとき、止めて欲しいと思う感情が、少なからず沸いてくるのはなぜだろうか?
自分の命はど〜でも良くて、他人の命はど〜でも良くないんだろうか
そんな不合理なことがあるはずない。論理的におかしい。


しかしそれでも、確かに胸に浮かび上がってくるもどかしさ
これは・・・先天的に人間が備える心理か? それとも今までの教育で擦り込まれた洗脳か?
いずれにせよ、そう感じてしまう以上仕方が無い
『命は自分のものだけではない』と言われる一つの所以なんだろうね。難儀なものさ。


ただしだからと言って、主観の考えを簡単に捨ててしまっていいのか
他人の考えに従って、自分の生き方を変えるってのは、僕は相当嫌う所
どちらを優先するかは・・・考えどころなんだろう。


そしてもう一つ。腑に落ちない点がある。
寿命を賭ける対象を、他のものに変えてみたらどういう印象を受けるだろうか?
例えば「家族」「仕事」「物」「信念」「趣味」
多少健康に良くないとは言え、家族のために身を削って働くという話は良く聞く
同じく危険な職業なんてごまんとあるし、命より大切な〜という表現も時折使われる
自分が目指す生き方のため命賭ける人も居れば、趣味でさえ危険を併せ持つものがある


・・・それらも同じ、自分の生命を削る、賭ける行為であるのに
前者と比べて、受ける印象が軽いのはどうしてだろうか。場合によっては勇ましくさえ見えてしまう。
そこに在る差は何なのか?
美徳観? ―そんな抽象的で無常なもの根拠や理由に成り得ない
だったら何が違う? 前者を非で後者を是たらしめる理由になってるものは何だ
・・・結局、わからん。憎らしいけど矛盾の一言しか出てこない。
けどこれだけは言える。理屈の上では、前者の行為にも非は無いと思う。


ったく、なんでこうこの世の中には矛盾が多いんだ。
全く以ってイライラする。
こう・・・例えば数学の世界のように、全てが整然として居たらねぇ〜
定義を根底に起き、導き出された定理公式には全て証明がある
答に至るまでの全ての道のりは、全て論理で綴られてる。そこに一片も矛盾も許されない。
これほど美しい世界は無いと思うんだけどね
―ま、それでも僕が数学の成績低いのは別の話として


そうそう、それからジーンシャフトって作品の世界も最高だった
全ての人間のライフサイクルは、能力が低下し始める頃までの40年
子供は政府が人工生成し、男女比を理想的なものに保ったうえで希望者に支給する
国、行政、社会までもが徹底的に統率された世の中


・・・普段は、さすがに一概にイイとは感じないけど
こうやってイライラしてるときに想像すると、この上なく恍惚的に思わせられるよ
っていうかベアトリーチェ!!!! (←この話題覚えてる人はかなりの古株w)