中学んときのバスケ部の先輩が亡くなったらしい・・・・。


突然の知らせだった。
しばらくは悪い冗談だとしか思えなかった。
2年間だったけど、共に汗を流し、過ごした。
ここ1,2年ぐらい会ってなかったけど
気さくな人で、とても好きだった。


・・・・なんだろうな・・・・
普段が論理主義振りかざしてても、知ってる人が死んでしまうこの感覚って言うのは
世界のどんなことにも比類なき、究極の感覚だ。


世界が・・・・・何か、違うものに見えてしまう。


今尚鮮明に蘇る、その先輩との話や、過ごした記憶
それと現実のギャップに、対処できないんだと思う
―なんてことがわかっていても、全く見当がつかないぐらい、対処ができない


ん〜・・・・。
「もっと生きたかっただろうな」とか考えると、余計に気が狂いそうだ
客観的に見て、ここ最近疎遠だった僕でさえこう感じるんだ
もっと近くに居る人ってのは、たまらんと思う。本当に、たまらんと思う。


だから
本当に、気をつけようと思うと共に
別に僕はもう死ぬつもりサラサラはないけど
もしそうなってしまったときのための対処は、やっておいた方がいいのかもって思った


逆説的に考えよう
「もっと生きたかっただろうな」と残った人に思わせると、その人の悲しみを増幅させてしまう
ゆえに「あの人はこの世に未練がなかった」と思わせれば、上の例よりも少しは、悲しみを減少させることに
なるのではないだろうか?


この命題は真?偽?


もし真だとすれば、あの人のように。
以前から(存在が)美しいと言い続けてる、園山赤音のように。
「死ぬるべき時節には死ぬがよく候、だよ。
 私は、園山赤音は、いつ、どこで、誰に、どんな風に、どのような理由で殺されようとも
 文句をいうつもりは一切、ない」
こんな言葉を、残しておくべきなのかもしれない。


本人がこういう想いを持っているかどうかは別として・・・・って考えは、行き過ぎとも思われるか。
遺族に伝える言葉が偽証ってのも、道徳的にアレだしな・・・。
まぁでも、少なくとも僕は、偽り無く赤音さんと似た思想を持ってるので問題無いわけだけど。


あくまで、「生きることは楽しい。」そこに偽りも間違いも無い。
けれどただ楽しいわけじゃなく、辛いことや苦しいこともある。そこに問題は無いだろう。一般論でもあるし。
ゆえに、「死ぬのは怖いし嫌だ。」そこに嘘はないとしても
ただ嫌なだけじゃなく、いいことや嬉しいこともある。これが僕の嘘偽り無い、純粋な思想だ。
(ex:矛盾からの解放、永遠への回帰、醜い世界からの脱却、そして・・・希望)
まぁどっちに転んでもオイシイと言うか・・・そんな感じ。もちろん現時点で「前者>後者」なのは言うまでも無いけど


僕が抱いてるバカな希望については、もう再三皆に知られてるので、有事の際も大丈夫だろう
どうぞ遠慮なく、遺族に伝えて欲しい。むしろお願いしたいね。
ただ苦しまされた末に殺されたんだとしたら、そんな相手まで許せるほど、赤音みたいに僕は美しくない。
どうぞ刑事罰を喰らわせてやって欲し(ry 現時点ではだけど。


さて、なぁーんて結果的に死後の話なんかしてると
たぶん辛気臭い雰囲気漂ってくんだよな〜
あくまでそれは違うくて、逝っちゃうつもりはサラサラない


僕はミスタードーナッツで「ポンデリング」が1番、「ゴールデンチョコレート」が2番目に好きなんだけど
今はポンデリング食べてて、もし食べ終わっちゃったり、手を滑らせて地面に落としてしまった時のために
次のゴールデンチョコレートのことも語ってるだけだから。ようは仮定の話(だったら始めからそう言え